ヨハネの福音書18:25ー40

 

「一方、シモン・ペテロはどうしたでしょう。火のそばで暖まっていると、またしても人々が、「あんた、あの人の弟子じゃないのか?」と問い詰めました。「弟子だって? 冗談じゃない。」 こう答えたものの、まずいことに、ペテロが耳を切り落とした、あの大祭司の部下の親類にあたる者が居合わせたのです。「しらばっくれてもだめだ。あのオリーブ園で、確かにイエスといっしょだったぞ。」 こうまで言われても、ペテロはあくまでしらを切りました。とその時、鶏の鳴く声が聞こえました。」25−27

 

万引きして捕まったら、親が呼び出される。「本当にすみませんでした!!!」と、親は涙を流しながら店員と警察に頭をさげる。その姿を横にして、自分のことではないかのように頭も下げずに無視していたらどうだろう。見ているこっちが腹がたつ。

 

ペテロはそんなことをしたんだ。最愛の存在だったはずのイエスさま。永遠のあこがれであるイエスさま。ぜったいにあなたを裏切ることはないと誓ったイエスさま。そのお方が何度も鞭打たれている。ひどい暴言を吐かれている。苦しんでいる。それを遠くで見ている自分。あたかも自分と無関係かのように。どんな気持ちで自分は火のそばで温まりながら見ていたんだろう。心だけでなく、口でもイエスと自分の関係を否定した。あの人と自分は関わりがない!と。主であり、師であり、友であるイエスを裏切ることを、最低と言わずしてなんだろう。

 

エスが苦しんでいるのは自分の罪なのに。その鞭は自分の体を打つはずだったのに。その呪いの暴言は自分に吐かれるはずだったのに。自分の罪を負っているイエスを遠くで見ながら、「自分とは関係ない。自分の罪じゃない。自分は悪くない。」という自分。

 

まさに、ペテロの姿は自分の姿だと思う。


エスさまはこんな最低の自分をどうするのか。

 


エスさまはペテロをゆるすんだ。もっと言えば、最初っからわかってた。あの日、イエスさまが自分を選んで、出会った時から、今日のことを知っていた。最初っからゆるしてたんだ。完全なゆるしからスタートしてたし、完全なゆるしが待ってたんだ。どんな罪さえも上まわるイエスさまの十字架の愛。どんな弱ささえも覆い尽くすイエスさまのゆるし。


自分が選ばれていることを疑うな。ゆるされていることを疑うな。だから、もう罪を犯してはいけない。もうイエスを否定してはいけない。この愛とゆるしのお方に人生をゆだね、ささげ、従うものは、なんて幸せものだろう。イエスに従うものに感謝と喜びは尽きることがない。主は最低の自分を用いて、最高の栄光をあらわすお方だ。このお方に信頼しよう。

 

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、任命したのです。」ヨハネ15:16


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