ヨハネの福音書18:1ー24

 

「しかし、イエスはペテロをたしなめました。『剣をさやに納めなさい。父が下さった杯は飲まなければならないのです。』」11

 

今日はイエスさまがペテロの裏切りによって逮捕される場面。ペテロはイエスを捕らえた兵士にむかって剣をふるった。


昔、夜中に警察に補導されたことがある。そのとき、逃げられたはずの友達がわざわざ戻ってきて、一緒に捕まってくれた。なんていい奴なんだって思った。

 

ペテロだって、イエスさまを捕らえようとした兵士に反抗したのは、「俺の大切なイエスさまに何をするんだ!」って思ったなら、いいじゃないか。美しい愛と友情の場面じゃないか。それなのに、なぜイエスさまはペテロをたしなめたんだろう。

 

それは「剣をとるものは、剣によって倒れるんだよ」って教えたかった。怒りに怒りを返してはいけない。裏切りに裏切りで返してはいけない。攻撃されたら、攻撃仕返してはいけない。いつも、悪に対して、善をもって返すんだよって、イエス様は教えたかった。

 

復讐は主にまかせよう。あなたは復讐するのでなく、その苛立ちをイエスさまの十字架につけ、自分を傷つけた人には許しと愛を与えることができるんだ。

 

もう一つ。父がくださった杯(さかずき)は飲まなければならないこと。それは十字架の苦しみを引き受けるという意味だ。「杯を飲む」という行為は、親しいの仲の証。そして喜びも悲しみもすべて共有することの契約の行為。

 

ペテロの愛の行動は嬉しかっただろう。でも、それ以上にイエスさまのペテロと、わたしたちへの愛の行動は大きかった。人々からバカにされ、激痛が走る鞭を何度も受け、わたしの罪のために十字架にかかって死ぬという苦しみの杯を飲むことを選んでくださったイエス様。その苦しみのゆえに、わたしたちの罪はゆるされた。傷は癒された。この命に意味が与えられた。

 

父のみこころを行うこと。それがすべての苦しみにまさる栄光。喜びと勝利であることを、イエスさまは知っていたんだ。わたしたちも今日、剣を捨てて人を愛し、自分の願いよりも、天の父の栄光あふれる御心がなるように祈ろう。どんな杯さえも、主が与えるなら飲もうじゃないか。それこそが親しい仲の証だ。

 

P.S.祈りのリクエストがある人はいつでも連絡待ってます。