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ルカの福音書8:4ー25

 

「さて、大ぜいの人の群れが集まり、また方々の町からも人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。 また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。 また、別の種はいばらの真中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。 また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい。」と叫ばれた。」4−8

 

みことばを聞くことは種まきにたとえることができる。種はみことばのこと。

 

道ばたに落ちた種というのは、根を生やし成長するのにふさわしい場所ではなく、人や鳥が来て、ダメにしてしまう。みことばを聞くときに、道ばたのような成長できない心の状態ではすぐに神さまから離れていってしまう。

 

岩の上はかなくなな硬いところ。人や鳥が通ることはないかもしれないけれど、根が生えないから長続きしない。何か揺らぐことがあると、すぐに神さまから離れていってしまう。

 

いばらの中は成長するのに邪魔するものが多いところ。成長しようしようとしても、社会的成功やお金や快楽にそれを邪魔されて、熟されない。

 

心を良い地にして置くと、みことばの種はよく成長し、よく耐えて、太陽と水によって実を結ぶ。

 

 

 

 

 

では、良い地ではない友だちに伝道するのは不可能ってこと?

 

こういう解釈をしてはどうだろう。

 

 

 

このたとえは種をまく人(伝道する側)の視点ではなく、まかれる人(みことばを聞く側)の視点ではなされている。だって、種をまく者はわざわざ道ばたや岩の上やいばらにまかないから。

 

 

自分を「種をまく者」としてこのみことばを解釈して、「じゃああいつは良くない地だから、神さまのこと信じねーや」と諦めるのではない。自分は「まかれた者」だとして解釈して、自分の心の状態を省みよう。今の自分は良い地か?どうみことばを聞こうとしているか?

 

 

 

 

 

じゃあ「種をまく者」として、みことばの種まきを考えてみよう。

 

 

神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」マタイ4:26−29

 

 

種には命がある。種には時がある。

 

種を育てるのは「まいた者」ではない、太陽や水だ。

 

 

 

みことばを伝えた相手の心が「どういう状態の地」かを考えるのはもうやめよう。祈りを持って、太陽であるイエスさまが育ててくれるのをじっと待っていよう。そこには祈りと忍耐が必要。

 

そして忘れてはならないのは、みことばを伝えた相手のことを心の底から愛していこう。「神を愛し、人を愛する」このいずれかが欠けていては、元も子もない。

 

 

 

今日も強くあって、期待していよう。

 

自分の心を省みて、それでいてイエスさまを見上げながら種をまく者として出ていこう。そういう謙遜さを持つ者になろう。

 

 

神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」マタイ4:30−32

 

 

 

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