マタイの福音書26:26ー46

 

「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』」39

 

イエスさまは十字架にかかる前、「悲しみのあまり死ぬほど」になってゲッセマネというところで祈った。私たちの罪を背負うという重荷は、それほどに重く、辛く、イエスさまを孤独にさせた。だれよりも忍耐できるはずのイエスさまが「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈るほどだ。

 

十字架のあがないは決して簡単などではない。それは何十回という鞭の痛み、釘で刺し通される痛み、十字架刑という吊し上げられる体の痛みだけじゃなく、人々のからの裏切りとののしり、侮辱だけじゃなく、何よりも天の父から見放されるという「分離」の苦しみだった。

 

十字架の上で叫んだ言葉は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」!!マタイ27:46だった。

 

病気を治すためには薬が必要だ。貧困をなくすためには富が必要だ。では、罪人をゆるすためには何が必要か。それは、イエスキリストという全く罪のないお方が、その一点のくもりなき清い血を流し、身代わりに罰せられ、見捨てられ、死にわたされることだった。

 

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」イザヤ書53:5

 

代償なしに手に入れられる自由というものはない。イエスの血はあなたを自由にした。どんな罪も、どんな悲しみも、どんな病も、どんな恥も、宗教的な束縛も、もはや支配する力をもたない。イエスの血の代償はそれほどに聖く、尊く、力があるからだ。

 

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」コリント第1の手紙15:55ー57

 

 

「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」41

 

心は燃えていても、肉体は弱い。サタンに隙を与えてはいけない。常に祈ろう。常に主との交わりのなかで生きよう。誘惑は頭の上を飛ぶ鳥のようだ。鳥を追い払うことはできないが、鳥が頭に巣を作るのを防ぐことはできる。

 

自分の弱いところに誘惑が襲ってくる時は、祈って主のちからによって打ち勝とう。主の御名によって祈ったその瞬間に、勝利がある。なぜなら、主のちからはサタンのちからに圧倒的に勝っているからだ。

 

自分の弱いところ知り、それを認めよう。そしてその領域において勝利できるように祈ろう。

 

 

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」2コリント12:9

 

 

 

P.S.祈りのリクエストがある人はいつでも連絡待ってます。

 

 

 

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