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主はよいお方

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札幌新生キリスト教会は、先日インフルエンザが大流行しました。ユースでもたくさんの人が苦しい思いをしました。

 

わたしたちは、失って初めてわかることが多いものです。健康も当然のように与えられていると思って生活しています。朝普通に目覚めることができる、学校に行くことができる!

 

でも、失って初めて「健康がないと何もできないな」と気づくのがわたしたちです。当たり前になっていると、感謝することも忘れてしまいます。

 

そして、神さまの計画の中には「失う」というプロセスがあることを覚えます。イエスさまの道には「失う」という季節があります。

 

しかし、わたしたちは失って初めて神の栄光を見ることができます。

 

「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」マタイ10:39

 

 

 

なにが良くてなにが悪いか 

 

 ビートたけしさんが書いた「新しい道徳」という本があります。

 

「道徳」っていうのは、何が良いことで何が悪いことか教えることを言いますが、ビートたけしさんは本の中でこう言っています。

 

日本で道徳を教えるのは本当に難しいことだ。

日本人は神がわからない国民だからだ。

 

全宇宙をつくり人間をつくった絶対者がいたら、いちいち道徳を教える必要はないんです。「ダメなものはダメ、良いものは良い」でいいんです。

 

しかし神を知らない日本人には、理屈をつけて説明しなくてはいけない。「こうだからダメ、こうだから良い」って言わなくてはいけない。前提がなくて道徳を教えることは至難の技だ、と彼は言います。

 

 

わたしたちは道徳を知っていても、自然と不道徳になってしまうものです。

 

 

 

 

パウロも言いました。 

 

 『私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。』ローマ人への手紙7:18ー21

 

 

 

聖書はこのようなわたしたち人間を、どのように見ておられるのか。

 

「私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」テトスへの手紙3:3ー6

 

 

 

愚か者で、不従順で、迷った者で、欲情と快楽の奴隷で、、、

 

 

しかし、神さまの一方的な恵みと愛によって(わたしたちが行った善いことによってではなく)、わたしたちを救ってくださいました。

 

わたしたちが救われたのは、ただ、あわれみによるのです。わたしたちが何をしようと関係ありません。神さまの愛にわたしたちの行動は影響しません。

 

 

 

みなさん!

 

イエスさまの十字架を信じていますか!

 

ならば豊かに聖霊は注がれています!!

 

 

 

良いことと悪いことは、神さまの恵みには関係しないのです。

 

 

 

わたしは愛されている。神は愛だからです。 

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わたしたちの在り方に影響されないのが、神の愛です。

 

わたしたちがどんなことをしても、神の愛を動かすことはできない!影響されない!

 

イエスさまは救い主の目でわたしたちを見ています。わたしたちのすべての動き、生き方、瞬間をご覧になっています。しかし、それを憎々しげに睨みつけているお方ではありません。

 

「あぁ、また間違えた」「またやった!」

 

 

神さまは全知全能の力によってあなたを見ません。

 

 

慈しみと愛によってわたしたちをご覧になっています。

 

 

 

 

 

 

有名漫画家の手塚治虫さん、最大のライバルとして見ていたのは福井栄一さんという漫画家でした。彼は「イガグリくん」という柔道漫画で爆発的ヒットを飛ばしました。

 

手塚治虫さんは、この福井さんにものすごく嫉妬してしまいました。「イガグリくん」の悪口を漫画誌で展開してしまい、大問題になりました。

 

ところがある日、福井栄一さんが過労で急死してしまいました。その時の思いを、手塚治虫さんはこう綴っています。

 

これで最大の競争相手がいなくなったと思うと、心底ほっとした。

ああ、僕はなんて汚らわしい人間なんだろう。

 

 

 

 

 

彼は、正直だなと思うんです。

 

 

 

同じ漫画家の死は、悲しむべきことです。しかし、そこにほっとした自分がいる。悲しめない自分がいる。そんな自分が嫌で嫌でたまらなくなった。

 

 

 

わたしは彼を「ひどい男だ」ということができません。

 

わたしたちみんなそうではないでしょうか。

 

 

「べき」ことはわかっているのに、心の中は敵意・悪意・妬みで溢れている。そして、そんな自分を軽蔑していくようになってしまう。

 

 

 

 

 

 

神さまは、罪を憎むお方です。

 

しかし、罪に悲しむ人をいつくしまずにはおられないお方です。

 

 

神さまは英雄的な人間、高貴な人間よりも、

 

どうやら罪によって惨めさを噛みしめる人間を好んで愛してくださる姿がイエスさまからわかります。

 

 

 

 

 

なぜなら、神の愛は

 

神のご性質が愛だからこそ、生まれる愛だからです。

 

 

人の行いによって生まれる愛ではありません。神さまが愛だから、わたしたちが愛される。わたしたちが愛される要素があるからではないのです。

 

 

 

神は、愛なんです。

 

 

 

罪人が愛される…?

 

聖書にこのようなストーリーがあります。

 

 

『自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人のほうが、前の人よりも、義と認められ、家に帰って行きました。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」』ルカ18:9ー14

 

 

2種類の人間がいます。パリサイ人のような生き方、それは不正を起こさず正しいことをして、嫌われ者ではない人、そして嫌われてる人を見て「このようでないことを感謝します」と祈る人です。

 

素晴らしい生き方でしょう。正しいことをする。しかし、彼の目は自分の正しさにありました。自分の正しさを神の前で誇っていた。

 

わたしたちもこのような気持ちになることはないでしょうか。

 

 

 

もう一人は収税人で嫌われ者でした。遠く離れて立って、目を向けようともしなかった。罪悪感があったからです。自己憐憫、恐れ、胸をたたいて叫びました。「神さま、罪人のわたしをあわれんでください!!」

 

 

神の前に義とされたのは、この人でした。

 

 

 

 

 

この収税人にあった姿、それは次のようなものでした。

 

1.罪を認める

全能の神、義なる神に心を探られても大丈夫!そういえる人はいるでしょうか。

 

神の前にはいかなる人も汚れた罪人です。収税人はそのことをしっかりとわかっていました。もし私たちが自分の罪を認めることができるなら、神の国は近いです。

 

2.罪を悲しむ

この収税人は罪に対し開き直ることはなかった。「わたしはこうですから!」とは言わずに、「もうこんな自分嫌なんです、神さま助けてください!」と心の底から悲しみました。

 

神に近づく資格はないと思っていたから、神殿には近づかずに遠く離れていました。

 

しかし、神さまは罪に悲しむ人をあわれまずにはいられないお方です。

 

罪の結果、責められたのは十字架のイエスさまでした。

 

3.神に解決を求める

神のもとに罪を告白し、助けを求めました。これは本当に大切なことです。自分の罪を神の前にどかっと置いて、ひたすら赦しを求める姿がありました。

 

「神には自分のような罪人をゆるす手立てがある」と信じていたからです。

 

神には、この罪を許すことができると信じていたのです。

 

 

みなさん、わたしたちの罪を神の前にどかっと置いていいんです。「主よあわれんでください」と叫んでいいんです。わたしたちはそのように祈っていきたいと思います。

 

神の前に義とされるのは、このような姿です。

 

 

 

 

 

善いことで罪の解決は得られない。善い方が罪の解決を与える。

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人は自分の行いや善いことで罪の裁きから救い出すことはできません。

 

 

 

 

 

江戸時代、本居宣長さんという学者がいました。彼はたいへん真面目な人で、正しく生きるために努力を惜しまなかった人でした。ところがどうしても自分の良心に反することをしてしまったりする。

 

そこで自分を戒めるために、悪を行うたびに柱に釘を打ち付けることにしました。しかし日が経つたびに柱はどんどん釘で埋まっていき、ついに釘を打てるスペーすはなくなってしまいました。

 

そこで彼は、善いことをしたときには釘を抜くということをしました。努力したこともあって、釘を全部抜くことができた。しかし、彼は最後に柱を見ながらこういうんです。

 

「釘は抜けたが、釘穴は残ったままだ」

 

 

 

 

 

 

善い行いというのは、過去にしでかしてしまった罪を消すことはできません。また、善い行いによって神さまの愛をいっそう受けるということもありません。

 

 

 

善いことをするというのは大切なことです。しかし善いことをしたかどうかで神さまの愛が増えたり減ったりはしないんです。

 

罪の解決に対し、善いことはなんの力にもならないんです。

 

 

 

 

 

 

 

「すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。」マタイ19:16ー22

 

 

金持ちの青年は自分の正しさに自信がありました。

 

「わたしに他に何が必要でしょうか」と青年はイエスさまに尋ねます。するとイエスさまは神の義を明らかにしました。

 

彼は圧倒されてしまいました。自分の基準・水準は超えていた。だからもう大丈夫だと思っていた。彼が財産をたくさん持っていたことに問題があるわけではないんです。財産に頼ってしまっていたことが問題だったんです。

 

 

 

「それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」」マタイ19:23ー26

 

自分の持っているものを、自分の富を、自分の力を手放すことができない。そう感じてしまうのが人間です。だからイエスさまは「金持ちが天国に行くのは難しい」と言いました。

 

弟子たちは言いました。

「じゃあ一体誰が救われるんだ!」

 

その答えはこうでした。

それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。

 

 

 

 

イエスさまの救いは、誰もが受けることができます。なぜならそれは、恵みだからです。

 

 

十字架のキリストを信じる 

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イエスさまがわたしたちの罪を代わりに償ってくださいました。このキリストによる救いを信じて受け入れた人には、神が聖霊を与えてくださいます。

 

 

聖霊というのは神の霊のこと、イエスさまとともにあった霊のことです。

 

 

 

 

イエスさまを信じる人の中には、神の霊が豊かに注がれるっていうんですね。神の霊、それは罪をすべてきれいに清められたところにしか注がれません。神はイエスキリストを信じた人を新しく作り変えることができます!

 

 

 

 十字架によって洗い流せない罪は何一つありません!!

 

 

 

 

イエスさまの十字架は、すべての罪を清めることができる尊さと清さと力があります。

 

 

人ができることは何一つありません。イエスさまが代わりに救いを成し遂げてくださったからです。

 

 

 

 

 

 

世の中にはいろんな教えがあります。

「救われるためにはあれをしなさい、これをしなさい」と命令します。

 

しかし聖書のメッセージは違います。救いは神が成し遂げたことだから。ただ、信じること。

 

 

 

 

「え、信じていますよ」そう思われる方もいるかもしれません。

 

 

しかしわたしたちは、信じていても従えない自分がいます。なぜでしょうか。その領域では信じきれていないからです。 

 

 

 

わたしたちは金持ちの青年のように、手放したくない握りしめているものがあるかもしれません。手放したあとに神の栄光がある、失って初めて神の栄光を見ることができる。それを知っていても手放せない…。

 

 

 

 

 

 

しかし、「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」です!

 

 

 

 

 

主はすべてを益に変えてくださるお方です。

 

主はよいお方。信じて、応答してみませんか。

 

 

 

祈りの課題

・イエスさまに自分の罪を認めて告白しよう。

・自分のすべての領域にイエスさまをお迎えしよう。