ローマ人への手紙6:15ー7:12

 

「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」16−18

 

「知らないのですか。自分の主人は自分で選べるのです。死に至る罪を選ぶこともできれば、義(正しさ)に至る従順を選ぶこともできます。だれかに自分をささげれば、その相手があなたがたの主人となり、あなたがたは奴隷となるのです。」(リビングバイブル16)


神は無理強いをされるお方ではない。人には、自分の人生を決断する自由が与えられる。神に従う人生を歩むか、否か。


ただし、神に従わない人生を選んだ時、それは罪の奴隷の人生だ。その最終的に行き着くところは、神からの永遠の刑罰がなされる場、「地獄」だ。聖書はそこに行くことを「死」とよんでいる。


奴隷は主人よりも弱い存在だ。私たちが罪の奴隷である時、私たちは罪に打ち勝つことはできない。私たちは自分自身で、自分を「死」から救い出すことはできない。

 

でも私たちには、イエス•キリストが与えられた。そしてこの方を信じることで、私たちは罪の支配下でなく、神の支配下で生きるという選択肢を与えられた。イエス様についていくと決断する時、私たちは罪の奴隷であることから解き放たれる。そして、「死」を恐れることから解放される。

 

神に従う人生を歩むか、罪の奴隷の人生を歩むか。決断はあなた自身しか下せない。

 

 

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ローマ人への手紙6:1ー14

 

「もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。」8

 

私たちには罪がある。陰口言ってしまったり、悪いことをしてしまうんだ。教会には「清い」イメージがある。罪というものに気づいていて、それを治そうと努力しているからだ。罪は私たちの心にキズばかりを負わせる。みんなは自分の罪に気づいているだろうか。

 

バプテスマというものがある。神様との結婚式だ。自分がこれから神様と一緒に生きていくと、みんなの前で宣言して水の中につかる。それは、罪が死ぬことを表すんだ。自分自身の中に住み着いている罪が死ぬ。結婚するんだ。一生一緒に歩む人として。そこで私たちは一度死ぬんだ。それは、神様と一緒に死んだんだ。そして、神様を信じて歩むんだ。すべてをあずける、それが信じるということだ。

 

自分の罪に気づこう。罪を完全に無くすことは私たちにはできない。それはこの世が罪だらけで、私たち自身が弱いからだ。だからこそ、イエス様と一緒にいる必要がある。罪を「ごめんなさい」と悔い改める必要がある。罪に気づくと、自分の人生が見えるようになる。そこには絶望じゃなくて、希望の人生になるんだ。

 

天国とは罪がない世界。罪から解放され、喜びと賛美しかない世界。クリスチャンはそこに行きたくて仕方ない。この世の喜び以上の喜びがそこにはある。

 

エス様を私の神様だと信じます!



ローマ人への手紙5:1−21

 

『そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。』3−4

 

今、患難の中にあるだろうか。辛くて苦しい状況にあるだろうか。そうなら、喜ぼう。なぜなら、その困難は最後には希望に終わるからだ。

 

エス様を信じて歩んでいく中で、苦しいことはたくさんある。信じてない時よりも多いかもしれない。でもクリスチャンは、その辛さに負けない。なぜなら、主が守ってくれて、道を照らしてくれるからだ。

 

押しつぶされることなく、主を見上げて、むしろ喜んで歩んでいける。忍耐して、さらに主との絆が深いものへと変わっていく。イエス様もそれを望んでいる。

 

あなたじゃなきゃその状況を変えることができないから、その辛い状況が与えられているんだ。あなたならきっと成し遂げてくれる、と、主は期待している。ちっぽけな私たちに、主は偉大な計画を用意している。

 

それは不安なことだろうか。確かに、私たちには力がない。自分だけじゃ変えられない。でも、主が助けてくれる。力を与えてくれる。その力を求めて祈ろう。辛い状況が与えられていることに感謝しよう。喜ぼう。最後は絶対に希望が待っている。

 

P.S.祈りのリクエストがある人はいつでも待っています。