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ヨハネの福音書12:20ー43

 

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」24

 

エスさまは自分のことを「一粒の麦」として話した。だれでも自分が一番かわいい。自分さえ助かればそれでいいと思うのが私たちだ。

 

でも、イエスさまは地に落ちた。それは死を意味した。その謙そんと従順は、麦が地に落ちて、種として地に植えられ、ときがたって豊かな実を結ぶように、私たちに命をもたらすこととなった。


エスキリストにあって、死は終わりではない。死の先に復活があり、主の御わざは復活の御わざだ。主のために自分を捨てることを惜しんではいけない。

 

何とか地に落ちまいと一人の自分を守る生き方ではなく、自分がすでに命あがなわれた一人であることを覚え、受けることより与えることを選ぼう。

 

わたしたちのために命を捨てたイエスさまの愛と恵みに、この命をもって応えていこう。

 

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」25

 

P.S.祈りのリクエストがある人はいつでも連絡待ってます。

 

 

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ヨハネの福音書12:1ー19

 

「イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。『恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。』」14−15

 

エスさまは格好いい馬に乗ってくることもできたはず。人々の肩に担がれて荘厳にやってくることもできたはず。しかし、ろばという足も短ければ背も低く、いつもは人の荷物ばかり乗せている動物に、しかもその子どもに乗ってこられた。

 

それは旧約聖書で預言されていることのとおりだった。イエスさまは人の目には「不十分なもの」を用いる。主はダビデというイスラエルの王さまを選ぶとき、サムエルにこう言った。

 

「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」1サムエル記16:7

 

ここでも、「ロバの子ども」のような未熟なもの、注目されていないもの、外見は優れていないものも、主の栄光のために役に立った。

 

あなたが偉大だから用いられるんじゃない。神さまが偉大だから、あなたを用いることができるんだ。主があなたを必要としてくださる。恐れず、自分自身を今日もあけわたそう。

ヨハネの福音書11:28ー57

 

「そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。」53

 

ラザロが死からよみがえった。神さまは死に勝るお方だ。イエスさまの大声での呼びかけ(「ラザロよ。出て来なさい。」43)は、死を打ち破った!

 

この決定的な奇跡によって、その場にいた多くの人がイエスさまを信じることとなった。最悪な出来事が、神の栄光に変わる瞬間だった。

しかし、その中にはイエスさまのことを信じないものもいた。

 

「もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」48

 

彼らは、絶対的な神さまのみわざによって自分たちの今までの生活が揺るがされるのを拒んだ。自分の地位、身分、肉的ないのちを守るために、イエスさまを殺す決意をした。

 

僕たち人間には選択権がある。自分の生活に神さまを受け入れるか、拒むか。神さまは僕たちに愛を示すために、ときに僕たちに介入しようとされる。

 

「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」マタイ16:25

 

自分で守るいのちか、神さまから受けるいのちか、愛なるイエスさまは祈りをもって、僕たちの選択を見ておられる。

 

 

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