1コリント人への手紙2:1−16

 

「愛するみなさん。私が初めて皆さんのところへ行った時、神のことばを伝えるのに、難しいことば遣いをしたり、高度な理論をふりまわしたりはしませんでした。イエス・キリストと、その十字架上の死以外は語るまいと決心したからです。」1ー2

 

確かに聖書は難しい。そもそも日本語で書かれたものではないし、当時の文化や時代背景を知っていないと理解するのは困難なときもある。

 

でも、神さまの愛、メッセージを理解するために(そして伝えるために)、難しい単語や理論を知っている必要はない。むしろ、難しく説明されたら伝わるものも伝わんないよね。

 

僕たちが信じて語るのは、神学ではないし、教理でもない。「イエスさまが、自らの命を捨てるほどにあなたを愛された」ということだ。これに尽きる!ここ、重要!

 

この手紙を書いたパウロがそうしたように、シンプルに伝えよう。

 

「また私の説教も、説得力ある雄弁なことばや人間的な知恵にはほど遠く、単純そのものでした。しかし、そのことばには神の力があって、聞く人々は、それが神からのことばだとわかったのです。 私がそうしたのは、あなたがたの信仰が、人間のすぐれた思想にではなく、神に根ざしてほしかったからです。」4ー5

 

 

1コリント人への手紙1:1ー31


「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。… これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。… まさしく、『誇る者は主にあって誇れ』と書かれているとおりになるためです。」27ー31


処女から子が生まれる。1人の罪なき人の子が、私たち全ての人間の罪を背負って死ぬ。そして死から復活する。

 

常識ある人なら誰だって叫びたくなるだろう。「そんなことありえない!」と。でも、ありえたのだ。実際そのことは起こったのだ。神の思考は、神の力は、人間の思いや常識をはるかに超える。

 

私たちは誰も、自分で自分を救うことなどできない。ましてや他人を救うなんて、できるはずがない。それを成し得ることができるのは、ただ主のみだ。


「高慢」という罪がある。「私はあの人より優れている」「私が正しい」という思い。
その思いを最大限まで募らせた大天使は、そのたかぶりゆえに地に落とされ、サタンと呼ばれるようになった。

 

でも主の力に思いをはせる時、私たちは、人間がどれだけ「私はできる、私は正しい」と言ったって、それは虚しいということに気づく。それは私たちを高慢から、そしてその高慢から生じる他人への不満や劣等感からも、解放する。

 

私には力はない。ただ主に知恵が、愛が、力がある。

 

「誇る者は主にあって誇れ」

 

私たちの主をほめたたえよう。その力ある主に今日も助けを求められることを、喜ぼう。

 

 

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ローマ人への手紙16:1ー27

 

「さて兄弟たちよ。あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教にそむいて分裂を引き起し、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい。」17


私たちの信仰を妨げているのはなんだろう。それは忙しさだったり、逆に楽しさだったりもする。「神様よりもこっち!」となってしまうことがある。

 

神さまは、あなたを命がけで救ったお方だ。なにより、あなたを愛しているお方だ。いつでもあなたと共にいて、こっちを見てくれることをわくわくしながら楽しみにしている。

 

神様との道で、障害になっているものを取り除けよう。生活の中に神様との時間を作ろう。いつどこで攻撃を受けても耐えられるように。

 

サタンは直接あなたを傷つけることは出来ない。思いを与えて、私自身が私を傷つけるように仕向ける。でも、神さまは私たちに直接手を下すことができる。サタンからの攻撃なんて、神さまの愛の中にいれば、なんの意味もない。防音室の外で叫んでいるものにすぎない。

 

神さまとの時間を作れないとき、教会には神の家族がいる。一緒に祈り合おう。祈りを共有しよう。

 

「神さま。今日もあなたの前に来れたことありがとうございます。日々の生活から離れて、今あなたの愛だけ感じれる時間です。あなたの愛で心をいっぱいにしてください。」